第82回ミュージアム講座「弥生集落の動向からみた出雲地域の成り立ち」(兼:まつえ市民大学連携講座・島根大学COC事業)を開催しました。

 10/31(土)、第82回ミュージアム講座「弥生集落の動向からみた出雲地域の成り立ち」(兼:まつえ市民大学連携講座・島根大学COC事業)を開催しました。

 この講座は、島根大学古代出雲プロジェクトセンターのメンバーがリレー形式で講義する、平成27年度島根大学ミュージアム市民講座第2ステージ「遺跡から探る『古代出雲』の成り立ち」の初回です。

 今回は、ミュージアム准教授の会下和宏博士が講師を務めました。内容は、島根県東部や鳥取県西部の弥生時代集落遺跡の動向から、「出雲」という地域がどのように形成されていったのかという話でした。

 まず土器の形という視点からみると、弥生後期頃から「山陰系土器様式」という独特の弥生土器が作られるようになり、山陰において人・モノ・情報の交流緊密化がうかがえるという説明がありました。また、銅剣・銅鐸などの弥生青銅器や四隅突出型墳丘墓の分布から、出雲では、各平野の集団ごとに祭祀が執り行われ、そうした集団同士が、ゆるやかにまとまりをなしていたようです。

 次に集落の変遷についての説明がありました。出雲臨海部では、特にや紀元後1世紀の弥生後期以降、遺跡数が増え、人口が増加したことが予想されるそうです。
 出雲平野では、島根大学出雲キャンパスの近くにある出雲市古志本郷遺跡天神遺跡のように、主に紀元前1世紀頃の弥生中期後葉頃から環濠集落というムラの周りに溝をめぐらせた遺跡がみられるようになっていきます。また、松江市田和山遺跡のように弥生中期末で廃絶する遺跡や米子市妻木晩田遺跡のように弥生後期に盛行する遺跡などがあるとのことでした。
 一方、安来市や伯耆大山周辺では、主に弥生後期以降、丘陵の斜面や丘陵上に集落が形成されるようです。これは、人口増加に伴って土地を求めた結果と考えられるほか、他集団の襲撃に備えるためとみる説もあるようです。

 以上のように、島根県東部などでは約2000年前頃から人口増加に伴って遺跡数も多くなっていきます。そして、各小地域ごとに自立的な集団が分立するようになりますが、祭祀や流通などの面で横のつながりも有していました。こうしたゆるやかな連帯が、イメージとして「魏志倭人伝」の記事にみられるような倭の「三十国」のひとつとして捉えられた可能性もあるとのことでした。

 そして後の古墳時代には、さらに政治的に統合が進展し、8世紀の律令体制下の「出雲国」につながっていくというまとめで、講座の締めくくりとなりました。

コメント